当時、ウェイトトレーニング部顧問、かつハンドボール部コーチとして指導いただいた三浦孝仁先生の発案で、当時、運動部主将会に参加されていたボクシング部OB会長の丸山圭介氏(故人)、漕艇部監督の藤原潔氏、アメリカンフットボール部監督の津尾佳典氏に体育会OB・OG会の連合組織の設立を働きかけられ、大学4年生であった私は初回の懇親会から参加して初代の事務局を担当した。陵門体育会の命名は、当時文学部に所属されていた倫理学がご専門の高橋文博教授に助言をいただいたものである。高橋教授は、後にハンドボール部顧問をされていた元薬学部長の篠田純男教授の退官に際し、ハンドボール部顧問に就任いただくことになる。陵門体育会設立から数年後に遭遇した東京への転勤を機に、事務局をハンドボール部後輩である田村薫氏に託す。その後、私の出身母体であったハンドボール部は、当時のOB・OG会(津島送友会)トップの考え方や、当時の陵門体育会における組織運営上の考え方の違いから退会に至ることになる。